Otowa Sanso Letter vol.03

ぼくが旅に出る理由。

随分と長いあいだ、旅の楽しみを手放していた。時間や距離、非日常的な刺激だけがその醍醐味ではないのだと、いまの世の中のほうが、むしろ旅の選択肢を広げてくれていたというのに。
箕面の駅から滝道を上り、土産物屋が軒を連ねる界隈を抜けると、程なくして今日の宿が見えてくる。中庭に面してコの字型に建つ、大正15年築の音羽山荘。滝道沿いの茶房はその日の宿泊客と食事に訪れた者だけが自由に利用できる、サロンのような空間だ。小さなライブラリと大きなテーブル、森に棲む音がメロディーとなったレコード。別の時間が流れているようなこの空間を通りすがりに見かけた日に、旅先リストは更新されていたのかもしれない。チェックインから夕食までのひととき、ページをめくることに没頭する。いつもはできないことを叶えてくれるのが旅ならば、「理想の日常」を取り戻すこともきっと旅だ。

アナログな時間と戯れてみる。

心地の良い空間には漏れなく、質の良い調度品という共通項がある。木の座面とは思えないフィット感の椅子。建物と調和する照明。好奇心をくすぐる選書が魅力の本棚。1983年生まれのスピーカーから流れるのは「聴く」という行為を強制しない、アンビエント系のレコードというアナログ尽くし。おまけに電波も弱いときているが、大丈夫だ。ここの魅力は、一刻を争うように拡散しなければいけないような、旬の短いものではない。

一泊旅だからこその贅沢を味わう。

「この辺の夜は何もないでしょ。だからお腹いっぱい食べておいてくださいよ」いつもより早い夕食どき、寿司カウンターで交わした会話を思い出す。大正時代の硝子窓のゆらぎが、外と内の境界をやさしくぼかしていく23時。もう少しだけ、この贅沢な夜を味わっていたくて、ウイスキーのグラスを傾けた。琥珀色の液体が豊かな香りとともにゆらめいて、匠の技が響きあう。見栄を張るでも背伸びをするでもなく、寛ぎの中でなりたい自分に出会うのも旅の醍醐味だ。

Design Takashi Shimada
Text Noriko Kagatani
Photograph Yoshiro Masuda
Planning Wakana Tamura

年4回発行している「季節のお便り」。今回は“旅をする”ことを考えてみました。
音羽山荘を訪れる方は、観光のための滞在先としてだったり、大切な人との思い出をつくるために、非日常の体験をするためだったり…旅の目的はそれぞれ異なります。
“寛ぎの中でなりたい自分に出会うのも旅の醍醐味だ。”と締めくくられた文章にもあるように、自分と向き合うために旅をすることもきっとあるでしょう。その旅先のひとつに音羽山荘があると嬉しいです。
今起こっている事、体験している事をすぐに拡散できる便利な世の中ですが、ここでの時間はあえて自身にとどめておいてほしいとも思います。旅をする理由への答えが熟成された時に、その情景とともに思い出されるものであってほしいと。
今回はそんなふうに想像しながら制作しました。旅する理由のひとつとして捉えていただけたら嬉しいです。